ハレの日も ケの日も

推しを愛して自分を満たす、その記録です。

雑記

あまりのことに腹が立ちすぎて吐き気がしたのは久しぶりだった。

自分がいままで大切にして飲み込んで飲み込んできたことを、きれいに真逆の解釈で取られてしまった。それ自体はわたしの至らない部分だけど、そうか、よりによってあなたがそれを言うんだ…って思うと言い返す力も出ない。

 

全部ひとりよがりの自己満足で、そういうひとを大切にしてきたのも自分。そう思えばまたひとつ勉強になったな。憤ってる時間がもったいない。

 

それにしてもどんなにとんでもないことをされても、あの時ほどではないからまぁ大丈夫。と6年前を糧にしてしまってることに気づいて自分の強かさを愛した。

「大豆田とわ子と三人の元夫」を見終えて眠れなかった夜に。

私が改めて言うまでもなく、素晴らしいドラマだった。この世の中に、日常に、溢れているのに名前のつかない感情や関係を掬い上げて「そこに存在すること」を認めてくれるような。それでいて押し付けがましくなく、サラッとユーモアを込めてクスッと笑わせてくれる。

それに加えて大好きな役者さんが同世代を演じてくれていて(それだけならあまりにも簡単な自分に呆れてしまうけど)、立場も状況も全然違うのに、とわ子に共感できることはすごく多かった。ふとした時に口ずさむ(時に熱く歌い上げる)懐かしい歌、10代の娘とのやりとり、男親との距離感、幼馴染の突然の死。私個人としても、ハマる要素で溢れていた。

 

そんな大好きなドラマの最終回視聴を終えて、ずっと頭から離れないこと、ツイッターでは言い切れないことがふたつあるのでそこだけ残しておきたい。

 

 

私は「NO means NO」が当たり前じゃない世界が怖くてたまらないんだと思う。

元夫達は別れた今もそれぞれがとわ子を大切にしているし、最終的にとわ子が本当に嫌がることはしないだろう。それでも彼らは男性で、とわ子が力づくで部屋から追い出すことはできない。例えば9話で小鳥遊とのデートに行かせまいととわ子を部屋に閉じ込める慎森は、暴力的ではなかったにせよ物理的な力を行使した。とわ子は慎森の気持ちを汲んで彼の行為を許していたけど、対等に見える彼らの関係は少しの加減で全然違うものになってしまうことが見えてしまった。

 

どんなに世の中から男女の差別がなくなっていったって、(個体差はあるにせよ)女性の方が非力で、力で男性を上回ることは難しいんだ、いつまでも。だからこそどうしても「NO means NO」を守りたい。弱者の「NO」を聞き逃さないでいたい。大袈裟かもしれないけど、それでも。

 

 

そしてもうひとつ。

ここから始まった、唄と交際相手の西園寺くんとの関係性について。

 

同じ10代の娘がいることも手伝って、唄のことが気になって気になって仕方なかった。できれば交際をやめさせたかった。唄の電話を奪って西園寺くんに直接物申したとわ子を称賛したかった。でも唄も鹿太郎も八作も、そしてとわ子自身もそれを良しとはしなかった。

 

唄はとわ子の娘だけど別の個人で、彼女はすでに自分の人生での選択を始めていて、親は求められた時に手を差し伸べるしかできない時期に入っていること、とわ子はちゃんとわかっていた。

そして「専業主婦になって夫との生活を内から支える」生き方だって素晴らしくて、それを選択することを否定する親であってはいけない。それもわかってる。

 

じゃ何が引っかかってるのかって、唄の思い描く「楽な」生活って、経済的に安定していることだと思うのだけど(そしてそれは男性である夫が医者であればきっと叶う)、

・全て「自分以外の他人(ここでは夫)の意思」でひっくり返る可能性があること。

・もし仮に夫が離婚を決めた時に、それまで家庭を内から支えることのみに注力していた女性が自立できるような仕事は、恐らくまだまだ限られていること。

・そんな将来を10代のいまから選択して、他の可能性を一切切り捨てているように見えること。

 

唄はものすごくしっかりしていてたくさんの現実を見ているかもしれないけど、やっぱりまだこどもなのだと思わせるセリフだった。

 

結果、唄は改めて自分で医者を目指すことを決めていたけど(そしておそらく"自分で"決めることが何よりも大切だったんだけど) 、そこまでの現実はまだ見えてないであろう唄がもしそのまま思う道を突っ走ってしまったら、それでも彼女自身の人生だから、と黙って見守るべきなのか、親としてどう手を差し伸べてやることが正解なんだろう…と頭を抱えてしまった。

 

世の中の変化、という点でこのドラマで救われたことももちろんあった。

 

確かに世の中は、いままで生きづらくて仕方なかった側への視点を持ち始めていて、本当にゆっくりかもしれないけど変わっていってるんだと思う。

 

唄が自分で選んだ道のその先に彼女の性別に関わらず、能力と努力が正しく評価されてそれに見合う対価の支払われる未来があるといい、世の変化がどうか間に合って欲しい、と強く思った。

 

なんだかんだと色々言ったし、気になったことを書き出してみたけど、それでも大好きで、いつまでも何度だって見返してまたとわ子と三人の元夫たちがいる世界を眺めたい。本当に楽しい3ヶ月だった。はぁ…早くBlu-ray発売されないかなぁ!!

さぁ、盛大にクラッシュする準備は整った

「クラッシャー女中」大阪公演が無事終了し、とうとう島根広島2公演を残すのみとなった。寂しい。このお祭りのようなハレの日々も終わりが近づいている。日常である褻の期間があるからこそのハレ。粛々と、日々をこなしてハレの日を待ちわびるあの期間にまた戻るんだな…。(突然ここでブログ名を決めたわたし)

 

さて、広島での大千穐楽を迎えるまでに、初回観劇後にはフワッとしていて、4回目の観劇後にくっきりとしてきた、私の思いをふたつ。

 

 

◾️義則、産んでやりたい。

 

27歳の義則にはね、ほら、性的なものしか感じないんだけど、ていうかそれだけであって欲しいんだけど、…なにしろ彼のバックボーンは考えれば考えるほどしんどい。結局義則の言動は全て 物理的に父親から、精神的に母親から虐待されて育ったことに由来するでしょ…。

 

例えば「愛する婚約者が泣いており、なぜか幼馴染である華鹿男に抱きしめられている」という状況でもまず駆け寄るのは部屋を勝手に抜け出てきた母親の元なんだけど、それは母親がより大切だからではなく「一刻も早く母親を部屋に戻したい=自分が婚約者に嫌われそうな要因を隠したい。」だもんね。嫌われることを何よりも恐れているんだよね。

 

花代に対するドSの態度だって、花代は冷たく罵られることが好きだから。

私の大好きな花代の台詞「やめたいですぅ〜」から始まるシーン。義則は花代に突然声を荒げるけど、あれはイライラしたり感情的になった訳ではなくて、花代が望んでいることをしただけ=花代へのご奉仕。(実際、花代に怒鳴る時と最後の山場でゆみ子に喚く時、義則の感情の剥き出し方は全然違う)

結局花代が喜ぶものを与えることで自分から離れないよう支配する、それが義則の生きる道。

 

クリスマスの朝の場面、義則は12歳のはずなんだけど成人男性が演じるためか 幼さを強調するお芝居になっていて、そのせいで義則と自分の5歳の息子が重なってしまうんだ…。サンタからのプレゼントを報告したのに、母親に素っ気なく流されたあとの義則。倫也さんのそこでのお芝居はそれこそ公演ごとに違うんだけど、全部、全部突き刺さる。あぁ…なんて、なんて表情を。聞いて欲しかったね、「よかったねぇ」って、喜ぶ自分を認めてほしかったね…あぁ、私が母親になってよしよししてやりたい…!!

 

……。

義則を語る上でもうひとつ、外せない台詞とシーンがある、うん、あります。あそこの倫也さん、本当に素晴らしい。一番、抉ってくる。でも、これはまだ、私の中で消化できない。どうしても、まだ書けないのでここでも割愛。

 

他人様の虐待について云々言ってる間に自分の育児を省みなさいよ、って話ではあるんだけど、私の子育てなんてとても褒められるようなものでないかも知れないけど、でも、義則を、産み育ててやりたかった…。嬉しいことを報告してくれたら全力で一緒に喜んでやりたかったよ…。

 

 

 

◾️女中 桃代、そしてクラッシャー女中

 

さて、結局「クラッシャー女中」って、ゆみ子ではなく桃代の事?…ってところまではツイートしてたんだけども。

 

・劇中に出てくる女中は 桃代、花代、そしてゆみ子の三名。この三名は物語の語り手としての役割も担うんだけど、最初から最後まで女中であるのは桃代だけ。

・舞台である小笠原家のお屋敷のセット、ところどころ塗り残しがある。「大道具です」と言わんばかりに。

・桃代の台詞「私の見た目が変わらないのはつまり、演劇の嘘でございます」いや、見た目が変わらないのはほかの人物も同じ。桃代にだけ言及したのは?

・最後のシーン、最後の会話が終わった後、義則とゆみ子がなぜか客席に背中を向けて舞台後方にいる桃代に向かってお辞儀。

・カーテンコール時、順々に登場人物が出てきて最後は義則、そしてゆみ子。全員が揃ったところでなぜか中心に移動する桃代。桃代の指揮で上手、下手へのお辞儀。その後みなが去っても舞台に残る桃代。客席の照明が徐々に明るくなり、舞台と同じ明るさになったところでゆっくりと去っていく。

 

以上から、「クラッシャー女中とは桃代であり、この物語は劇中で桃代によって上演された演劇。桃代はプロデューサーかつ脚本かつ演者」(=根本宗子さんそのもの)だったのかなって、わたしの中でやっと結論が。

 

そう思ったら母親にあんな風に言われた義則も、家を焼かれた華鹿男も乃恵留も、存在を消されたゆみ子も、みんな虚構の中のこと、本当に存在しないんだ。そう思えて。結局私が自分をラクにしたいための解釈なんだけども…。

 

 

ふぅ、やっとまとまった、吐き出せた。なんてしんどくて楽しくてエグいお芝居!!!

 

本日の島根公演、そして大千穐楽の広島公演が引き続き素晴らしいものになりますように。演者さんスタッフさん関係者各位が、怪我なく事故なく思い残すことなく駆け抜けられますように。

 

 

推し方のこと、私のスタンス

3/27に初観劇後、ここまで4公演を観劇させてもらった『クラッシャー女中』。沢山の方の感想や解釈を聞いたり読んだりしてその度に唸ったり悶えたりしている。どれもみな素晴らしいの…。観劇ど素人の私にはこのガイドがないととてもじゃないけど喰らいついていけない。ありがとうありがとう…遠慮なく吸い込ませて頂きます。

 

さて。ひとつ前の記事で、初回観劇の感想を吐き出しているんだけど、その中で書いた「ゆみ子がファンそのものに見えた」を、もっと辛辣に受け取って自分自身を当てはめて苦しんでいる方、とても多いような。

 

倫也さんのファンて、倫也さんが唯一無二で、他に推してる俳優さんやアーティストがいても、倫也さんが絶対的な存在として君臨している、そんな方が多いように思う。そして今回この舞台のメッセージが直撃してしまってしんどくなっているのも、まさにその人たちなのかなって。

 

倫也さんのお芝居は、板の上からでこそ引力が強い、本当に。映像作品を見ていてもそれは充分発揮されていたように思っていたけど、生で舞台を見せられて実感した。こんなのを何年もかけて毎回全く違うアプローチで見せられたら、それはもう降参するしかないでしょ完全に白旗でしょ…。

 

そして彼は、ファンへの愛がすごく深い。ツイートひとつとってもそう。こんな人を何年も見つめ続けていたら、それはもう心も身体も持っていかれちゃうよ…。

今回彼が望んで挑んで手にしたアラジンの吹き替えに、ファンのみんなが彼のことを思って咽び泣いているのも、そういうこと。ファンは推しの鑑、倫也さん同様みんな愛が深いの。だからこそ、自分のスタンスを省みてしまい、苦しむんだろうなって。

 

一方 私はなんでこんなに他人事なんだろうっていえば、私の中の推しって、あくまで「自分の人生を豊かにしてくれる存在」で、言ってしまえば「自分が毎日を楽しく暮らすために」推しが必要なわけで。あくまで自分ベース、推すことも悶えることも全ては自分が楽しむため、自分本位。これは極端に言ってるけども。

 

もちろん、好きになった方にはできれば健やかに充実した日々を送ってほしいと思うし、望みは叶えてほしい。こんなに毎日をキラキラさせてくれる推しには本当に感謝してる。

 

でも、推すことで自分が苦しくなるんだったらいっそ離れるか、少なくとも距離感を見つめ直すんだと思う。私は。そしてこんな自分本位な推し方を自覚しているからこそ、「推しのため」にはならないって思ってて。「こんな浅くて自分本位な人がファンでごめんなさい、せめてご迷惑にならないように推すし、落とせるお金は落とします」くらいの気持ち。ゆみ子にはね、なり得ないんです、私の向き合い方では。

 

と、いうことがくっきりはっきりわかってしまった。くぅぅぅ、なんだよぅ抉られはしないけどなんかちょっと私寂しいよ根本さぁん!!!!!

 

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ここまでが名古屋で3回目を観た後にまとまって、いざ大阪での4回目。ゆみ子のこんな台詞が妙に私の中に残った。

「義則くんがかけてくれた声のおかげで、多分今日まで私生きてこれたの。」

重い。ただでさえものすごく重いやつ。その「かけてくれた声」が発端でこの悲劇に繋がってるんだとしたら、義則はめちゃくちゃに後悔するはずの。

 

 

……。

 

…………。

 

これ、わたし、言ったこと、あるな……?

 

 

 

わたし!!!!!!

桜井さんに!!!!!!!

常々言っちゃってる!!!!!!!!

 

 

全然ダメだ、わたしの中にもいたわ、ゆみ子!!!!!

 

もっと省みて!!!!!!!もっと抉られて!!!!!!苦しんでください!!!!!!!

 

【ネタバレあり】クラッシャー女中

私が中村倫也っていう役者に興味を持ったのはそれよりも少し前なんだけど、ドドーンと沼に落ちて戻れなくなったとはっきり自覚したのは、劇団新感線の舞台『Vamp Bamboo Burn』をBlu-rayで観た時。そもそも生で観た訳でもなければ、そこまで「推し」と認識していた訳でもない人が出ているというだけで何かに突き動かされるように円盤を購入したことがそれまでの私にはあり得ないんだけど、とにかくHDDを圧迫している撮りためたドラマを差し置いて、VBBを観た。そして、戻れなくなった。舞台観劇自体が未経験だったせいか、あの勢いと迫力に押し流される3時間半は今でも忘れられない。そして、中村倫也の虜になった。

 

前置きが長くなった。とにかくあの時から「板の上の倫也さんを、生で観る」ことが私の夢であり生きる糧のひとつだった。大袈裟だな。でもそういう気持ち。

 

そんな私が今日2019年3月27日、10ヶ月半越しの夢を叶えた。本多劇場での『クラッシャー女中』観劇。作・演出は根本宗子さん。幸運なことにこの後何度か観劇できる予定で、きっと二度三度と回を重ねるごとに新たな気づきがあるんだろうけど(そう願いたい)、私の、はじめての倫也さんの舞台は、今日だけ。だから長々と思ったことを綴ります。

 

———ここから舞台のネタバレ盛り盛りです———

 

まず、とにかくまずこれを言いたい。

倫也さんの声量に、圧倒された。

ほかの役者さんの台詞だってみんな聞き取りやすかったのに、ひとたび倫也さんが話し始めたら(少しも声を張り上げる様子なんてなかったのに)その圧倒的聴きやすさと声量に衝撃を受けて「俺は舞台人だぞ」の意味の一端が、私にも分かった一瞬だった。あぁ、これから水を得た魚のような倫也さんをこの目で観られるんだ、って昂ぶってたまらなかった。生のお歌にももちろん感動したんだけど、歌だけが特別に浮き彫りになるわけではなくて、その発声と声量、緩急、全てが一貫して素晴らしかったな…。

 

さて。

 

義則(中村倫也)の屋敷に婚約者・静香(趣里)とともに乗り込んできたゆみ子(麻生久美子)。実は静香は義則とその母への復讐心を滾らせており、ゆみ子は幼い頃から盲目的に義則を愛していて「ひとりぼっちになった彼に自分だけが救いの手を差し伸べる」ことを実現させるためだけにあらゆる手を使って義則を窮地に陥れる。

 

というストーリーなんだけど、このゆみ子の描写がとにかく恐ろしい。自分の思い描く義則が全てで、ずっと見つめてきた自分が一番義則を理解していると信じて疑わない。思惑通りに窮地に陥った義則が怒りと絶望に狂っているのに、ゆみ子は夢が叶った喜びに満ちている。義則の言葉は聞こえているはずなのに、その訴えは一切ゆみ子の頭には届いてない。

 

…なにが怖かったって、ゆみ子が「役者やアイドルを推すファンそのもの」にしか見えなかったこと。都合のいいことしか耳に入れない、一面を見て全てを理解した気になる…アイタタタタタ、耳が痛い、痛いよごめんなさい根本さんもうしません許してください…!!!

 

いえ、私にはそう見えたって話で、普通に恋愛関係や友人関係、親子関係の中で起こりうる悲喜こもごもそして人間のエゴが描かれていたんだけど、ほんと怖かったし、そこから逃げ出す義則が倫也さんご本人に見えてしまいそうであぁ、もう。

 

今回のお芝居中、一番しんどくて観劇後も思い出しては泣いてしまうくらいの台詞があって、それはここでもまだ書けないくらいにはしんどい。もし、今後どこかで触れる機会があれば、そこで書く、かな。ただ、そのシーンの倫也さんの表情は神がかっていて、泣いてしまって少し見逃したことが悔しくてならない。次回は両目をかっぴらいて一部始終焼き付ける。

 

それから観劇前に読んだどなたかの感想にあった「見たかった倫也さんが全部詰まっていた」に、大いに納得。もう序盤の序盤で「いく?いった?もういったの?あぁよかった」で星屑ばら撒いたの私だけじゃないはずだから絶対!!なんてこと言わせるんだよこっちは生の倫也さん見ただけで過敏になってるのよほんとに!!って心の中で両手合わせたし、最後の方の花代の「(義則に対して)性的なものしか感じられない」(だったかな、あぁ衝撃でうろ覚え…!)なんて「えっえっやだ根本さん私たちのうちの誰かのフォロワーだっけ?えっやだもう」って震えたくらい共感しかなかった。終盤のゆみ子の告白に義則が憤慨して絶望して頭を抱えるシーンでは、擬似「関係の終わりが見えてきた恋人同士の揉め事」気分を味わえました。(いや倫也さんがああいう風に苦悩してた訳じゃないんだけど。わかってるけど。)とにかく全編通して大好きな中村倫也詰め詰めでしたお腹いっぱいです。本当に本当にありがとうございます…!!

 

そして、文章にすると本当に救いのない物語なのに、これを全編通してコミカルに描くんですよ、根本宗子っていうひとは!!!!!恐ろしい。あの脚本を受け止めてこんな素晴らしい形で世に出してくるこのカンパニーの役者全てが恐ろしいよ私は。これからまだどんどんブラッシュアップされていくんだろうな。あぁ、怖いくらいに楽しみだ…!!

【ネタバレ】「嘘を愛する女」雑感

嘘を愛する女」を見て、心につきささってぐちゃぐちゃになったものをただ吐き出して落ち着きたいがための文章です。読みにくいし、ネタバレばかりだし、しんどかった思いをなんとかするためなので心地よいことは書いていません。


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騙されていた、裏切られたと知った時に絶望よりも怒りに心が動いて「桔平がこのまま目覚めなければいいのに」と思った、というゆかりに、生命力を感じた。自分の生活を、プライドを守りたいという自己防衛の気持ちかもしれない。でも心を守ることは大事。絶望から心が壊れてしまうことだってあるし、心が壊れると消えてしまいたくなる。何も感じたくなくなる。頼るはずの、ぶつけるはずの相手はいない。ゆかりは嫌なおんなだったけど、強かった。絶望して消えようとしていた桔平はこんなゆかりの強さや生命力に救われていたのかも知れない。



でも、この物語の主人公であるふたりへの感想に行き着くまでにわたしのなかで一悶着あった。



桔平が安田公平だった頃の事件が受け入れられなかった。「桔平に直接的な犯罪をさせずに重い過去を背負わせる」必要のためだけに「妻が育児ノイローゼで子と無理心中」という設定になったのなら。桔平が小説に描いた将来に、死なせてしまった我が子も、罪を犯させてしまった妻もいない。罪悪感に苛まれ続けながら生きる必要はないんだと思う。でも、あの短い時間の描写では、桔平のあのふたりへの想いが全く見えないから、本当に本当に救われなかった。


わたし自身、育児で孤独を感じていた時期があって、その延長線上にあの亡くなった妻になった可能性は充分あったと思っているのがこんなにひっかかった理由だと思う。ワンオペ育児で頑張っている誰でも彼女になり得るし、あの哀しい事件はどこにでも起こり得る。「設定の必然性」だけで扱っていい事件とは思えないし、どうしても扱うなら桔平が父親として夫としてそこに向き合う描写を少しでも見たかった。


夫として、というのは「仕事だから仕方がない」と言ってめちゃくちゃな時間の使い方をするゆかりを窘めるシーンに後悔が現れていたのかもしれない。じゃ、父親としては?まだ向き合えても乗り越えてもいないから、「資格がない」ってこと?でもゆかりとの子供を育てる夢だけは見ていた?


ここが、どうしても落ちないな


ただ、出演されていた役者さんたちは、素晴らしかった。長澤まさみはガツガツの自己中なオンナで、でも仕事で認められるために虚勢張ったり無理したりもしてきてそのバランスを恋人でとっているところまでほんとリアリティがあって。

高橋一生は断片的なシーンでしか登場しないのに全てにおいて桔平としての存在感が完璧だった。

あと年上に興味のないわたしがちょっときゅんとしてしまった、吉田鋼太郎に!ゆかりに振り回されながらも、愛に溢れてキュートだった。娘に対しての言葉は許されるものではないかもしれない。でもそれを決めるのは娘さん本人であって、「99.999%の確率で、多分お父さん」と言った彼女が許すのなら、それでいいんだと思う。あとで「あれはしんどかった、辛かった」って言える相手がいることもあの子にとって大事だと思うから。



前半でもうひとつ心を抉られるシーンがあったけど、その抉られた部分は見ないことにした。蓋をして忘れる。


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つらつら書いたけど、映画でこんなに心が揺さぶられることってなかったから、忘れられない作品にはなった。手放しで褒められなかったのが残念だけど、いつかわたしがもっと寛容に、いろんな問題を客観視できるようになれたらもう一度見たいと思うし、違う感想を持つのかなと思う。